2008年2月18日月曜日

最期

2月17日(日)

この日はとても調子が良かった。

頓服の痛み止めを必要としなかった。

痰が絡むこともなく、朝と昼は食欲がなかったけれど、夕方は「何か食わせや」と言ってお粥とうどん、ヨーグルトを食べた。

朝から何度も試みた排便、19時にやっとあり、安心した。

トイレに座っている間、ずっとOさん(義兄)がおなかを擦ってくれる。

22時半の記録・・・Tの字で

「トイレに行く前にお茶を飲む。今日はけっこう調子がいいようで、水も多く飲むし、痛み止めを飲んでいない。」

と記載あり。

以前は痰が絡んで辛そうだったので、加湿器を買って調節するもなかなか湿度が上がらず、お湯を沸かしてタライに入れる。

Tが一日に何度も何度も鍋で湯を沸かしてくれる。



2月18日(月)

1:00 トイレの後、手が痛いと言う。訳の分からないことをいう。大きな声。痛み止めを飲む。


7:30 寝て上を向いた状態で手を合わせている。何をしているのかと思ったら、お経を唱えていた。

8:00 痛み止めを飲む

8:25 朝の内服薬を飲む。嫌がるかと思ったがあまり抵抗なく飲んでくれた。

8:30 少し咳き込む。緑黄色の痰 喀出

11:00 トイレに座る。呼吸が辛そう。横になっても辛そう、努力呼吸 足が痛いと強い訴え

     DrへTEL

     痛み止めを飲む O2(携帯のもの)吸わせようとするも嫌がる

11:30 痛み強く訴え、肩呼吸

     DrへTEL「肺水腫になっているのかも。」頓服の痛み止めは30分空ければ内服OK、痛み強ければ2包内服可。4時ころ来るとのこと。

     痛み止めを飲む

     前屈位、座位で落ち着く

12:00 ベッドギャッジアップ 半座位で眠る

12:10 訴え強い 痛み止め2包内服

     眠る

13:40 訪問Ns(Iさん)来訪

     SPO2=89% T=35.5℃ BD=84/54mmHg

     ウトウトするも呼吸が辛そうで起き上がろうとする。

     座位、前屈位 自分だけでは姿勢が保てない。後ろから抱えて姿勢をとる。

14:50 Dr来訪

16:30 痛み止めのパッチ 胸部に貼る

     今晩がヤマ場?「何かあれば連絡を」と帰る

17:00 酸素がくる。カニューレで酸素吸入 O2 3L

     半座位で眠っている。

     時々呼吸が止まる。チェーンストークス呼吸

17:30 呼吸停止

2008年2月17日日曜日

笑顔

職場の皆さんにご迷惑をおかけして、殆どの方に交代を交渉し、当直を代わってもらって帰ってきました。
帰ってきて、「ただいま」と顔を見に行くと、しばらく焦点が合わず、暫くたってから私の顔が分かった様で、「帰ってきたか。」と一言。
一日の殆どの時間を寝て過ごし、立つのも座るのも、ベットの上で起き上がる事ももう自分では出来なくなっている。
座っている時もウトウトして、眠っているのか、起きているのか分からない。
時々、夢と現実が分からなくなっているのか、意味不明の行動を取る。
でも、嫌だという意思表現はしっかりする。
痩せたとは言え、父の体を支えるのは大変で、義兄か甥か息子の誰かの手を借りないと難しい。
これだけ人手があってでも大変な介護・・・介護の大変さを身にしみて感じる。
あれが嫌だ、これをするな、もうええ・・・と言われながらも、そばで背中を擦れる。この時間を大切に思う。
「・・・・出来るかの?」と急に笑って話してくれた。
結局は意味不明だったが、笑顔がついこの前まで冗談を言っていた父のおどけた顔を思い出させてくれた。

2008年2月15日金曜日

もう少し・・・

今朝、Drから「あと一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれないが早く帰ってきたほうがいい」と言われたそうで・・・
今日を入れて後3回の連続当直は代わってもらえる人がいなさそうで・・・
長男のTが帰ってくれてて、夜中に付き添ってくれている。
oovooやチャットでも話をするが、携帯でいろいろ近況を伝えてくれる。
昨日も今日も痰が絡んで咳き込んで苦しそうだと。
話しているうちに涙が出た。
『泣くな』・・・泣くなと言われると余計に悲しくなる。
「遠くで来れないのと、近くで苦しい姿を見るのとどっも辛いね」とT
「とりあえず早く来て」と。
SPO2が92へ下がっている。O2開始
ネブライザーを借りる(訪問看護センターの物は全部出ていて在庫が無い)処方をDrに頼む。
オキシコンチンの内服が難しくなることが予想される為、パッチと併用する。
もう少し頑張って。

2008年2月13日水曜日

ウィンブル

ウィンブルを購入
みどりのボタンを押すと、半径30メートル以内に居れば、受信機がブルブル振動して呼んでいる事を知らせてくれる。
父の部屋はリビングの隣に移動し、出来るだけ誰かがそばに居るようにするのだが、居なくて大きな声で叫ぶということが続いた。
これがあれば大丈夫。
あと、増えたもの。
介護ベット→高さ調節が出来るのでいい。他にもギャッジUP出来るがあまり使っていない。
杖→4本足のもの。1月中旬まで自転車に乗っていたとは思えないほど足腰が不安定になっている。
歩行器→トイレまで歩行するのに転倒しないようにと看護師さんが持って来てくれたが、ベットが邪魔でトイレまでの最短距離を歩行器が通らない。ボツ!
ポータブルトイレ→蓋を開けないと普通の椅子の形をしている。これを使うのは抵抗があるかと思ったが、日に何回かはつかっているらしい。それだけ歩けなくなっているということ。
昨日の診察でプレドニンの量が増えた。利尿剤も違う物に変わったと。定期的に飲む痛み止めの量も増えた。

2008年2月12日火曜日

先日、帰省した時、姉がビックリする物を見せてくれた。
私が小学校の時に書いた作文の入選の賞状
4年2組とあった。賞状といっても、B6判位の小さな賞状。
私は見た記憶もない。
国語は嫌いだった。特に作文なんて何書いていいか分からないから、いつも猫の事か、姉の事(私が小2の時には姉は市川にある筑波大付属の聾学校へ行っていた)しか書けなかった。
4年生の時、学校の遊具で遊んでいて骨折をした。今はもう既にない「オーシャンウエール」という傘のような形をした遊具。それに摑まってグルングルン回るのが楽しい大好きな遊具だった。
その骨折の体験を書いた作文だったと思う。
その小さな賞状を父が持っていた。という。
後にも先にも文章を書いて賞状を貰うことは無かったから(たぶん)嬉しかったのかなぁ。父。

私が埼玉の衛生短大に行くと言った時、どうしても行くのかと寂しそうだった父。
「今日帰るね。」と言うと「どうして?」という。「仕事があるけぇ」「25日に帰ってくるけぇ」というとカレンダーを確認する父の目があの時、短大へ行くと決めた時の父の目だった。

2008年2月11日月曜日

看取るということ

「あなたの家にかえろう」
12月に帰省して父の外来受診に付き合った時、腫瘍科の待合室でこの冊子を見つけた。
それまでは、父は今まで通っていた県病院の緩和ケア病棟に入院して最期を迎えると思っていた。
この冊子を手にし、父の使っている古いベットを換えようという事をきっかけに、色々なアドバイスを頂き、どんどん在宅療養へと準備が進んでいった。
そのきっかけは私だったかもしれない。けれど姉の「どんどん行動する。何でも人に聞いてみる。調べてみる。」という行動が幸した。

まだ、1月の段階ではまだまだ先の事と思っていた。1月には余命3ヶ月と言われていた。
この先生と話をすると必ず余命宣告をしてくれる。聞きもしないし、聞きたくもないのに。
膵臓癌のOP後はあと半年と言われたし、ヘルニアのOP後は4ヶ月と言われた。
それを何とか元気に前向きに過ごし、1年8ヶ月生きてきていたから・・・
だから、1月にあと3ヶ月と言われても切迫感はなかった。
2月に入って、あと1ヶ月と言われ、衰弱してくる父を看て「もう本当にいよいよなのだな」と言う実感を持った。
でもそれでももう少しは・・・という気持ちもある。

介護認定を受ければ、介護ベットが格安でレンタルできる事。それが準備を進めるきっかけだったが、今となれば準備を始めていて良かったと思う。
在宅療養へと切り替えて、過ごし易く、安心してゆっくりと療養が出来るように順調に進んでいく。
でも、家族は姉と母は不安だという。
訪問看護師や医師が「いつでも駆けつけますよ。」と言ってくれても、痰が絡んで苦しそうだったり、足が浮腫んでパンパンだったり、排泄に支障があったり、足腰がおぼつかなかったりするとどうしていいのか分からなくなるのだろうと思う。
家で病人を看護し看取るということの大変さが見えてきている。
私と甥は出来れば最期まで看たいという思いがある。でも、何かあった時・・・
介護士の甥は仕事があり、私は25日までは帰れない。
なんとか25日まで持ち堪えてくれるといいのだけど。

在宅診療 ホームホスピスケアを検索していて見つけたもの
アットホーム ホスピスケア――住み慣れた家で最期まで過ごすために――

2008年2月7日木曜日

広島在宅クリニック

というわけで、緩和ケアをして下さる、広島在宅クリニックの先生が来てくださった。
院長のK医師とF医師、今日は顔合わせという事でお二人が揃って来てくださり、地域包括センター 介護支援専門員のKさんも同席される。
症状に対して・・・
痛み止めー朝夕に出ている以外の頓服は1日3回までとなっていたが、痛みが止まらなければ30分間隔を空ければ何回飲んでも良い。
呼吸状態は今は落ち着いているけれど、季節がら痰が絡みやすくなるので水分を多めに取ること。
足の浮腫と変色は血行不良によるもの、1日3回の足欲をすること。
内服薬の管理、食事と排泄の記録
訪問診療に関しては、週1回定期的に訪問するるが、何かあれば電話連絡していいとの事。質問などはFAXでも良いと。
来週火曜日にF医師が来られることとなる。

在宅療養へ

OOVOOでチャットをしたり、ウェブカメラを買ったりしている最中に、父が「痰が絡んで苦しそうで、どうしていいのか分からない。呼吸が苦しそうだ」と夕方と夜中に甥っ子からTELあり、次の日、発熱をした。
県病院で診察の結果、軽い肺炎だろうという事で点滴治療で帰されたが、急遽、在宅療養に切り替えるための連絡が取られた。
私は県病院の父の主治医に呼ばれ、次の日、夜勤明けで広島に帰り、話をしてきた。
家族の方には軽い肺炎という事で話をしたが、肺はとても綺麗で、癌転移も見られず、炎症を起している影も無い。
「発熱は胆管炎によるものだろう」ということ。
CRPは12月から上がってきていたから、肝臓周辺の炎症はこの状態では仕方のないことなのかもしれない。
「急激にマーカーが上がってきている。全身の状態が衰えている。あと、1ヶ月でしょう」と。
「訪問で診療をしてくれるK先生という医師に引継ぎをしておきました。」・・・と。
あと1ヶ月というのは、姉からM先生からそう言われたと聞いていたので、そうショックではなかった。
だけど、こうバタバタと事が進んで、それはそれで感謝しているのだけれど、本当にこれでいいのだろうかという気持ちと、お世話になった(本当に良くしてくださった)方々とお別れなのだという寂しさがあり、後ろ髪を引かれる思いで県病院を後にした。

2008年2月5日火曜日

OOVOO

姉が、父に孫(TとMとY)の姿を見せたいからテレビチャットが出来ないかと言ってきました。
姉夫婦はWindows LiveメッセンジャーかOOVOOを使っているという事で、OOVOOをダウンロードしてとりあえずチャットに挑戦。
姉との連絡はいつもメールだけど、チャットの方が楽。
何で今までそうしなかったんだろう。

2008年2月4日月曜日

雪と猫


雪の降った次の日、ベランダに残った雪を触ってみるふぅです。
つついてみて、舐めてみて・・・面白い。
昨日はもっと面白かったらしく、Mがビデオに撮っておいてくれました。
私は仕事だったので。(T_T)
降っている雪を捕まえようとするラン、何が何だか分からず興奮しているふぅ。
家の前の道は細い道路で、車はあまり通りませんが、駅からバイパスへ抜ける裏道で、人はかなり通ります。
踏み固まって滑らないように、JとTとYが雪かきをしている間ずっとふぅはそこらじゅうを走り回っていたそうです。(ランは大人しくちょこんと座って静観してました)
ふぅは犬のようだったと。
見たかったなぁ。

2008年2月3日日曜日


雪です。
昨日はお客様がいらしてて、帰られた後もワインをたらふく飲んで→洗濯物を取り込むのをすっかり忘れてしまいました。
洗濯物の上に雪が積もっていました。(T_T)
今日の洗濯物とかなりの量の洗濯物が部屋を占領です。(悲)
今日は久々の日勤・・・自転車でいけるかな?

2008年2月1日金曜日

またまたバレコン

今日はオールジャパンバレエユニオンでした。
今日は、気持ちよく踊れたようです。
完璧にはほど遠いけど、アチチュードターン廻りきれていないし(等等)・・・舞台に立っているMが「いいなぁ。」と思いました。
親ばかですが。
今回の枠、ジュニアⅠは中3と高1のグループ。高校生はやはり、中学生とは違う!上手な子が多くて、大人です。
今回終わった後にMが「何か賞には入れればいいけど・・・」と初めて言ってた。けど、それは無理です!
NBAだったら可能性はあったかもしれないけど、今回は無理です。
でも、そんな気持ちになれる踊りが踊れて良かった。
コンクールに出て、初めて良かったと思えましたよ。私も。
前回のNBAの個人成績表が届きました。なんと1位(人)差で予選通過が出来なかったようで・・・
ま、出来は悪かったのだから、あれで予選通過といわれるほうが微妙かもしれない。
また頑張りましょう。